2014年1月21日(火)~22日(水)
マジックサークル開設10周年が過ぎ、益々の向上心を持ち、年齢を問わず皆さんに楽しんで見てもらえるよう
毎年一泊研修を行っています
今回は新年会を兼ねて行ってきました
すんごい硬いこと書いたけど・・・
本心は仲良しグループと楽しんで続けられればいいな♪と(^o^)
12名の予定でしたが、一人がインフルエンザになり欠席
男性4名 女性7名 くじ引きで車3台に振り分け 9:00出発
休憩で立ち寄った 新東名 「藤枝SA」 11:30
新しくてとても綺麗! 日本のトイレは世界最高ですもんね♪ さすがです! その次は「静岡SA」
ここで昼食となりました
沢山のお店があり、比較的並んでなくて美味しそうで・・・と4人が選んだ「餃子付き焼きそばセット」
誰も並んでいなかったのに番号札を渡されてしばらく待つと・・・
次々と違う番号が呼ばれて~~!(-_-;)
結局食べ始めたのが遅くなったのよ~~(笑)
日本平 13:30
3台がそれぞれ行先をナビに入れて・・・
私の車の後についてきた車が「自分のナビとは違う場所だ。山の下に行かなきゃダメなんじゃ?」
と言われたけど、私のは新しいナビだし・・・。
そうこうしてたら3台目の車がここへ到着♪ あってたよ~んヽ(^o^)丿
日本平ロープウェイは、日本観光地百選で1位に選ばれたこともある名勝「日本平」の山頂と徳川家康ゆかりの史跡「久能山東照宮」を5分間で結んでいる索道です。
ゴンドラから四季折々姿を変える屏風谷
久能山は推古天皇の時(西暦600年頃)久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て観音菩薩を安置し、
補陀落山久能寺と称したとあり、久能山の名称もこれから起こったと思われます。
案内のアナウンスがとてもよかった!
樹齢500年と思われるクスノキの横には 当時のお城の石垣も残っています
東照宮の御祭神である徳川家康公は天文11年(西暦1542年)12月26日、三河国(現在の愛知県)の岡崎城でお生まれになりました。
時は戦国時代、ご幼少のころより人質のご身分であった家康公はあらゆる艱難辛苦を跳ね除け、
遂には天下を統一し征夷大将軍の座に就かれました。
戦国時代の混乱は家康公の治世によってたちまち回復し、あるゆる産業、学問、文化が花開いた「太平の世」が始まったのです。
楼門(ろうもん) 13:50
境内には楼門、鐘楼、神楽殿、社殿、博物館などがあります。
この門をくぐって東照宮詣が始まります。
二階部分には後水尾天皇の宸筆(天皇陛下御自ら書かれた書)である「東照大権現」の扁額(へんがく)が掲げてあり、勅額御門とも言われています。
楼門の両脇を守る武者
内側から見たところです
唐門は閉じてあったので、右の日枝神社から回ります
日枝神社の前の階段脇に「プラモデル」のはじまりは静岡からの看板が
そう!静岡には『ガンダム』のプラモデルで有名なバンダイの工場を始め、
青島文化教材社、田宮模型、ハセガワ、フジミ模型といった世界にも有名な模型メーカーがあります。
その起源をさかのぼると、德川家康公も崇敬された静岡浅間神社や、久能山東照宮造営に際し、
日本各地から優秀な職人が集められたことにあります。
造営が終了したのちも、職人は静岡(当時の駿府)に残り、雛人形や竹細工などの木工細工に携わりました。
その技術が昭和に入り、木製教育玩具や木製教材を生みだし戦後になり木製模型が制作され、
プラスティック模型につながったのです。
本殿 入口
社殿は国宝。定期的に建て替えられ、いわゆる「権現造り」が踏襲され、400年前と変わらぬ姿である。
社殿の装飾となっている様々の極彩色の彫刻や絵の文化的価値は言うまでもありませんが、
それらには家康公から現代に生きる私たちへの大事な伝言が秘められてます
そして長く急な石段(数百段)を登りつめ・・・
神廟 家康の墓 14:10
本殿からさらに進んだ最奥部にあるのが、神廟。家康の墓
日光や、東京の増上寺などで、将軍墓所として馴染みの宝塔が建っています。
埋葬当初は、小さな祠が建てられただけだったようだが、
家康を崇拝していた三代将軍の家光が、高さ5.5m、周囲8mの立派な墓所にした。
昔は、何びとも立ち入ることの許されない「聖域」でした。
折良く歴史を語るボランティアさんがいらして歴史をお話しして下さった。
家康の遺命に従い、西向きに建てられている。
西を向いているのは、西国の京(天皇)を見守る目的、
あるいは、西国の大名(毛利や島津、いわゆる薩長)に睨みをきかせるため。
また、「東照大権現」というぐらいだから、東から昇って世を照らす
太陽のような存在でありたいとの思いが込められているのとのことだった。
そして、一番知りたいことも聞いてみた。それは、
「家康の遺体はここにあるのか」ということ。
家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で75年の生涯を終え、遺言によってこの久能山に埋葬された。
武田信玄を尊敬していた家康は、生前からこの山を気に入っていたのだろう。
よく知られている話では、家康の遺体は、
一周忌後の元和3年(1617年)、下野国日光に改葬されたと伝わっている。
それは家康が「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、
日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること」と遺言しているからだ。
1.遺体は駿河の久能山に葬ること
2.葬式は江戸の増上寺で行うこと
3。位牌は三河の大樹寺に立てること
4.一周忌後に下野の日光山に小堂を建て勧請すること
これを信じるなら、家康の遺体は久能山にはなく、日光に移されたことになるし、
歴史の教科書とか、多くの文献や資料にも、そのように記載されている。
だがしかし、久能山では「家康の遺体は今もここにある」と昔から主張している。
ボランティアさんに尋ねたところ、やはり「家康公はここに眠っています」とのお答えだった。
それはどういうことか。ちょっと、家康の遺言をよく見てほしい。
注意して見れば・・・「勧請すること」(分祀せよ)と言っているだけで、
「改葬せよ」とは、一言も書かれていないではないか。
つまり、久能山の主張では、日光へは「死後まもなく切り取られた遺髪とか、
墓の周りの土が移されたのではないか」、というのだ。
現代ならば、分骨という方法も考えられるが、それは火葬の場合に可能であって
土葬された場合は棺を開けて遺体から切り離す作業が必要となる。
家康以下、歴代の将軍はみな土葬されている。
(将軍家の人間で火葬されたのは、2代・秀忠夫人のお江だけ)
当時の人がそうした真似をするだろうか。だから、分骨ということは考えにくい。
よって、家康の遺体は日光ではなく、久能山に眠ったままという可能性は高いといえるのではないか。。。
石組みにおいて、一枚岩から一組のパーツ(横石と柱石)が掘られ、それを鉛で繋いである
隣の柱との繋ぎも全て石である
家康公が愛されていた愛馬のお墓
ここに立っているだけで切なくなってしまいました。
一周して 再び正面から
五重塔跡
三代将軍家光公の命により建立された五重塔が明治時代まで設置されていました。
江戸時代に作成された地図などには久能山のシンボルとして描かれることが多く、30mを超える技術的・芸術的にも優れた塔と伝わっていますが、
神仏分離令を受けて明治6年に取払われ、現在は礎石が残されています。
神厩(しんきゅう)
家康公の愛馬を飼育するために建てられた厩舎です。
その昔、愛馬は夜になると家康公神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。
ある朝、馬が厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、静かに眠ったままの姿で見つかりました。
その話を聞きつけた名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられています。
馬の眼球には当時大変貴重であったギヤマン(ガラス)が使用されています。
駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中遊覧を楽しめます。
この後、本当はイチゴ狩りの予定でしたが・・・
お疲れの方々が多く(>_<)
多数決で宿に向かうこととなりました(+_+)
今夜の宿へ到着 15:45
一番手前の車が私。 5人乗りの主人の車を借りていったので黒です(笑)
部屋には入らず、宿からすぐの三保の松原へ出てきました
海岸では学生たちがトレーニング。 野球部かな?
この時、空は曇っていて富士山は見えず・・・
羽衣の松まで歩いて30分と聞き、途中で引き返してきました(^^ゞ
三保園ホテル ロビー 16:20
お部屋です
水回りは。。。普通です(笑)
脇の扉からベットルームへ続きます 1人は和室でお布団 窓からマイカーが見えます
お茶を頂いて
源泉かけ流し温泉へ~~~
他にお客様がいらっしゃるので、写真はここだけ(+_+)
夕食は広間で貸し切り~♪
こっちからも~~(笑)
賑やかなおしゃべりと美味しい食事♪
毎度のビンゴゲームも始まるよ~♪
商品持ってスナップ~♪
商品がお米な訳。。。仲間の一人がお米屋さんだから~~~(笑)
部屋へ戻ったら本来の目的であるマジック研修会
先生の華麗な技や仲間たちのマジックに、拍手したり 試し技したり 意見の交換
初めて見る技も出てきて盛り上がりました
11時を過ぎて、もう一度温泉へ♪
ゆっくり温まってからベットでおしゃべり。。。
なかなか寝付けないのは毎度のこと~~
二人の寝息が聞こえてきました。。。